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呉の礎がこのように作られた

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tamagocchikunです。
 

今回は、呉の視点(孫堅・孫策・孫権)の視点から見ていこうと思います。

 

 

・孫堅の活躍

 

孫堅は、反董卓連合軍にも参加しており、持ち前の武勇と統率力で勢力を拡大していました。

官渡の戦いが始まる前の頃に、孫堅は荊州の劉表に攻め込みます。官渡の戦いの後、劉備が身を寄せることとなる劉表です。

 

相手に奇襲をかけ攻めていたのですが、敵か弓矢での攻撃を受け、その矢が孫堅に命中。あえなく戦死してしまいます。

この時、孫堅は37歳でした。

 

・孫策の活躍

 

さきほどご紹介した孫堅の息子です。孫堅が戦死した時は16歳でした。

体制を整えるため、いったん親戚の元に身を寄せます。

 

その後、父孫堅が戦った事がある袁術の配下となります。ちなみに袁術は、官渡の戦いでの袁紹の弟にあたります。

当時、袁術の軍には孫堅の兵が約1,000人属していたと言われています。

孫策は、父親の兵を返してもらうために袁術の配下になったものと考えられています。

 

孫堅は、父親に負けず劣らず武勇に優れていました。そんな孫堅ですが、袁術の元での初陣はぼろ負けでした。

その後は、結果を出し続け、ついに父親の兵を返してもらうことに成功します。

その兵の中には、のちに呉の礎を築く幹部クラスの武将も数多く含まれていました。

 

兵力を高めながら戦に勝っていく孫堅。ところが袁術は孫堅を重用しようとしませんでした。孫策は袁術の元を離れ、独立する機会をうかがうようになります。

 

そして孫堅は出陣の許可を袁術に求めます。袁術は出陣させるかどうか悩みましたが

「1,000人の兵では大した事はできないだろう。仮に活躍してくれたらラッキーだし、

やられたらやられたらでオッケー」という事で出陣の許可を出します。

 

袁術の思惑とは違う流れになっていきます。

 

出陣した孫策の元へは続々と兵士が加入し、最終的には5、6,000人の勢力になりました。

この時に幼馴染で、後に呉の大軍師となる周瑜と合流します。

そして孫策はどんどん勢力を拡大していきます。

 

この時、孫策と曹操は対立関係でした。

曹操は、勢いのある孫策を煙たく思っていましたが、孫策を倒すほどの力はありませんでした。

そこで曹操は、孫家に対して婚姻関係をいくつ結ぶことで同盟のような形にしました。

孫家としても、中央にあまりつながりが無かったため、曹操に近づく事はメリットでもありました。

 

しかし、孫策も父親と同じ運命を歩むことになります。

孫策が26歳の時に戦で負った傷で亡くなってしまいます。

 

・孫権の時代へ

 

この後は呉を建国した孫権へと引き継がれていきます。

孫権が19歳の時でした。

 

 

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